3日目、手術日
前日の夜はまた寝つきが悪かったけど、朝6時半ごろに検温で起こされた。この時点でもう飲み物も飲めないのでガマン。手術に備えて、事前に渡されていた弾性ストッキングを履いて手術用のガウンに着替える。ストッキングは血栓ができるのを防ぐためらしい。ガウンの下はパンツ履いたままでいいと言われた。
9時になって手術室へ向かう。前日に買っておいた紙オムツと腹帯は向かう時に看護師さんに渡した。
手術室の手前の待合エリアで、看護師さんが別の方にバトンタッチ。同じ部屋に他の女性の患者さんもいて、髪の毛を覆うヘアキャップをかぶるのに手間取っていた。僕はアタマ丸めちゃってたので楽だったし、ヒゲも短かったからか剃らずにそのままスルーだった。
待合エリアから、看護師さんに連れられて移動する。病室と違ってフロア全体が寒い。廊下を通って、大きなドアを看護師さんが足元のスイッチを踏んで開けた。ドアをくぐると、初めて入る手術室だった。意外と広い。天井も高く、空間が大きい。本当に緑一色なんだ。ベッド、照明、いろんな機械、異様なほどの無機質さ。ここに来て初めて、手術を受けることへの不安と緊張が襲ってきた。そうだよ今から手術なんだよ僕ハラ切られるんだよ。ていうかイマサラかい。我ながらここに来るまでまったくと言っていいほど緊張感を持っていなかったというお気楽加減にちょっと呆れもした。
そんな緊張をよそに、執刀医のD先生が声をかけてきた。あまりよく覚えていないけど、今から始める、というようなごくごく端的な会話だったと思う。スタッフさんに言われるがままにベッドに乗り、膝を抱えて丸まった姿勢になって麻酔をかけてもらう。全身麻酔の前の、硬膜外麻酔。なんともいえない不快な振動が背中から体の中に伝わってくるが、痛みはわずかだった。麻酔医の先生が親切に気遣って声をかけてくれた。
麻酔をかけられている最中、室内に流れるBGMが気になった。たぶん、待合エリアから同じ音源が流れてたような気がする。クラシック曲。曲目は覚えてないから僕がよく知らない曲だったんだろうけど、曲の雰囲気からして、突飛な現代曲とかマニアックな器楽曲とかではなかったと思う。ただ気になったのは、その曲が短調で、どちらかといえば暗いというか物悲しい調子だったこと。たしかにイケイケドンドンなアニソンとかウチのドライブでガンガン流れる昭和歌謡とかノリノリブンブンなディスコティックとかよりは「落ち着いた、クラシックのBGM」ってのがスタッフさん方にも患者にも妥当なのかもしれない。けどさ、クラシックったっていろいろあるでしょ。ココで「運命」とかがジャジャジャジャーンて流れたら結構驚くか通り越して笑っちゃいそうだし、ミサ曲とかレクイエムとか流れたら相当気まずくない? 誰の選曲なんだろ。そしてプレイリストどんなんなんだろ次の曲なんなんだろ考えたらめっちゃ興味あるそれ。
BGMに気を取られていたらマスクをつけられた。緊張をほぐすかどうかはさておき、なるほど気を逸らすということでは効果アリだ。「すぐに寝ちゃいますからね」と言われてそうなんですかと返事をしたところで意識が途絶えた。本当に寝落ちするみたいにブツリと消えた。
次に目を覚ましたのは病室のベッドの上だった。そばに看護師さん。意識が戻った直後は自分の身に何が起きたのか一瞬戸惑ったけど、すぐに手術を受けたことを思い出す。そして同時に身体の違和感にも気づく。口には不織布マスクの上から酸素マスク、背中やらパンツの中やら指先やらからいろんな管、脚の膝下には空気で膨んだり縮んだりするポンプ、そして腹には腹帯。まだ麻酔が効いているおかげなのか、腹にさほど強い痛みはない。ただ、声が出ない。出せない。そうか、気管挿管されてたからノドがおかしくなってるんだ。看護師さんの呼びかけに応えるのもやっと。その状態で、なんとか声を絞り出して看護師さんにお願いしたのは、スマホで写真を撮ってもらうことだった。無事に、かどうかは僕にはまだわからないけど、とにかく手術は終わって、ちゃんと生きてるって、ヌシ様に伝えなきゃ。
撮ってもらった写真をさっそくヌシ様に送ろうとスマホをいじったら、ヌシ様からもたくさんメールが届いていた。この時点で13時だったけど、ヌシ様へはD先生から「無事に手術が終わった」という旨の連絡が12時半には着ていたそうだ。ということは、麻酔で寝てから3時間ちょっとで手術は終わっていたんだろう。きっと本当に順調だったんだと思えて、なんだかとても安心した。先生からは「夕方には麻酔から覚める」と言われていたとのこと。それなら、夕方まではまだ寝ていてもいいよね。スマホいじってるのもやっぱりまだちょっとしんどい。がんばって看護師さんに撮ってもらった写真と、もう少し休む旨を送って、スマホを置いて目を閉じた。薬のせいなのか、それとも疲れのせいなのか、身体中に違和感があるというのにあっという間に寝てしまった気がする。
次に目が覚めたのは17時くらいだった。3、4時間しか経っていないんだから何も状況は変わってない。さっきと違うとすれば、さっきよりも自分が落ち着いていることくらい。術後から血栓予防に自力でも足を動かせと言われていたのを思い出して、少しずつ動かしてみる。足首の曲げ伸ばし、膝の曲げ伸ばし。加圧ポンプがふくらはぎに巻いてあるけど、ゆっくりとなら問題なく動かせた。腕も問題ない。管がついているので気をつけなければならないけど、動かしても痛んだりはしない。
そっと掛け布団をめくって、ガウンの前をほどいて腹帯を外してみた。出てきたのは自分の腹だけど、ヘソのところにマッチ箱くらいのバンソウコウが貼られていて、その周りに4ヶ所、切手くらいの大きさのガーゼが貼ってあった。腹腔鏡手術の跡。開腹手術に比べて手術跡がすごく小さいと知っていたけど、それでも全くない訳ではない。本当に手術を受けたんだなぁとしみじみ思った。それにしても、腹に5つも穴を開けられて腸を切られて繋がれたというのに、硬膜外麻酔のおかげでじっとしている分には大して痛くない。術前に背中に入れられた硬膜外麻酔の管は疼痛管理のために術後もしばらく留置されるそうで、「PCAポンプ」という薬剤を持続的に注入する装置が管につながっていた。このポンプには緊急ブザーのような握り込む形をしたボタンが付いていて、痛みが強く出た時に患者が自分で薬を追加投与できるようになっている。一度ボタンを押すと薬剤が投与されると同時にボタンがロックされて、一定時間経過しないと再追加ができないようなしくみで過剰投与を防いでいる。「この薬が切れたあとも、痛み止めは出せますからね」と看護師さんに言われたものの、今の薬が切れたあとにどれほど痛むのか予想できないだけに、追加ボタンはおいそれと使えなかった。
じっとしていれば大したことないが、やっぱり腹筋を動かすとそれなりに痛むので寝返りは少ししんどいし、起き上がるのも多分今は相当キツそうだ。入院して手術するのは初めてでも、麻酔や痛み止めが効いているからといって余裕こいてムチャしたりすると薬が切れた時にとんでもないシッペ返しを食らうということくらいはこれまでの人生で履修済み。とりあえず今は安静にして傷の回復を待たねば。
はだけた腹帯やガウンを元に戻して仰向けになっていると、「へ」が出た。音はしないが、妙に湿り気のある「へ」だった。腸の手術した直後でも「へ」って出るんだ。たしか、ちゃんと通ってるってことで「へ」が出た方がいいんじゃなかったっけ。よくわからんけど、まぁとにかく出させてもらいましょう。一度出たら、そのあとどんどん出始めた。これって腸ががんばって動いてるってことなのかなぁ。腸が動くと言えば、「へ」じゃなくて「み」だとしたらどうしよう、いますぐにカラダ動かせないし、あの離れたトイレまでいま自力で行けるのかなってあれちょっと待ってなんかこのカンジなんかヤバくないすごく腸ががんばってる気がするんだけどコレ「へ」じゃないんじゃないなんかギュロギュロなってるし出すのガマンしようかってさっきから「へ」はガマンしてないっていうかガマンできないんじゃんいまああああああ。
でゅりゅでゅりゅでゅりゅでゅりゅ。
「へ」ではなく確実に「み」が出たとわかった。こういうことがあるから、手術の時にオムツを持参しろってことだったんだなぁ。生まれて初めてのナースコールは、ウンコ漏らしてしまったことを告げるためだった。
「すみません、下痢をしてしまったんですが……」そう伝えると、看護師さんは手早く対処してくれた。これだけでも十分だが、さらに残念なことは、これが1回じゃ済まなかったことだ。1時間と経たないうちに再度、1回目よりも大量に下痢便をオムツに漏らしてしまった。買っておいた紙オムツは2枚しかなかったので、対応してくれた看護師さんが「売店で使い捨てパンツと、あと使い捨てのパッドも買ってきますね」と僕の店から現金を取って買いに行ってくれた。この下痢便漏らしは夜にもあり、その時はなんと看護師さんがパッドを変えてくれている真っ最中、自分がカラダを横向きにしてケツを看護師さんに向けている時に下痢便が出てしまった。ベッドの上で半裸になって横になっている状態で自分のケツの穴から下痢便が流れ出るところを他人に見られる。これが、入院か。これが、手術か。なかなかできない体験だ。その時の僕には、せめて下痢便が勢いよく吹き出さないようにできるだけゆっくりとウンコを漏らすことくらいしかできることがなかった。看護師さんは何事もなかったかのように、その場で流れ出る下痢便も手早く始末してケツを拭い、新しいパッドに変えてくれた。
それにしても、こんなにウンコを漏らすのが通常なのであれば、患者には事前にもっとオムツなりパッドなりを用意しろと言うはず。前日は絶食の上で下剤を飲んでいるんだから、こんなにウンコが出るのはイレギュラーなのだろう。前日、口寂しいからとお茶を飲みまくってアメをなめまくったことを後悔した。
夜、ヌシ様とメールのやりとり。僕の手術も終わって、今日という一日が無事に終わると思ったら、ししが帰りの車中でリードを噛み切ったらしい。やりかねないことだとは言え、このタイミングでやってくれるとは、ししもヌシ様も何か持ってるねその天性の間の悪さ。おかげで手術終わったその日のベッドでネットショッピングするハメになった。入院中にまたやらかすかもしれないからと開き直って色違いで3本発注してやった。
明日、ヌシ様がお見舞いに来てくれるって。その時までにちゃんと起きて話せるようになってますように。


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